【チェンソーマン考察】厄介オタクと化したマキマさんは、まんま厄介なオタクそのものか

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『チェンソーマン』第90話表紙/藤本タツキ/週刊少年ジャンプ/集英社

注:この記事は、現在(2020年11月30日)9巻まで発売されている『チェンソーマン』の10巻以降の話となります。

ネタバレあります。

ご注意ください。

チェンソーマン83話以降、すっかり様変わりしたマキマさん。

彼女は『チェンソーマンのファン』だと言っています。

しかし、自分の要求や望みと違うチェンソーマンの姿となったデンジに、「お前は違う」と詰め寄ります。

いっとき、理性を失ったチェンソーマンと戦ってた時のマキマさんは、そりゃもう嬉しそうで、チェンソーで巻かれた日には、口が緩んで目が逝っちゃってました。

所が、デンジの自我が覚醒した途端、汚物を見るような目付きで

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どうしてデンジ君に戻っているのかな・・・。

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あなたの今の姿も、話す内容もチェンソーマンとして相応しくありません。

果ては

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不愉快です!

などと容赦ありません。

更に

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チェンソーマンは

服は着ないし

言葉を喋らないし、

やること全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの!!!!!

(正確には「!」はありません)

て・・、あんたがめちゃくちゃよっ!

厄介オタクと化したマキマは、本当に厄介オタクの事かもしれない!

今週第95話では、「マキマの死は、他の誰かが身代わりになっている。」という、死なないマキマの詳しい描写もありました。

首が飛んだのにそのままくっつく様子や、切られたマキマの代りに公安の人間が傷つく描写は、アメコミ映画を通り越して、スラップスティックコメディのようでした。

自分の好みや意図にそぐわない部分は一切認めず、しまいには邪魔をするならデンジは死ねと宣うマキマ。

この様子を見たファンからは、解釈違いを一切認めない厄介オタクのようだと、ネット上で大きな話題を呼びました。

ていうか笑われてた。

あー、このままじゃ、マキマさん変な人だし、ほんとに厄介オタクそのものよ。

しかし、このマキマさん、まんまホントに厄介オタクとして登場しているんじゃないでしょうか??

一連のマキマのセリフは、藤本タツキによる皮肉なんじゃないですか??

チェンソーマンの考察って、きっと作者は読んでるよね。

今、『チェンソーマン』には様々な考察がなされています。

普通に読んでも面白く、読み込んでいくと考察が止まらない謎の魅力のある作品。

・・、考察してなんぼの作品でもありますが、黙示録や神話をなぞらえているのではないかと、目下の噂です。

かなり詳しく解説されているものもありますし、不詳私も、色々記事を書いたり、感想を書いたりしています。

しかし、もしかしてこれって的外れなことしているんじゃないかという気がするようになったのです。

この作者、予想通りとか大嫌いそうですよね。

『チェンソーマン』には、モチーフはあるだろうし、ベースとなってる世界もあると思う。

毎週なされる様々な考察記事、作者は分からないけど、編集さんは読んでますよねきっと・・。

何だか、思うつぼの考察で、『しめしめ』と思われているんじゃないだろうか。

クククッ、本当は違うんだよ~。

とか思われてそう。

それは全然いいのですが、本当は、ただの「表現者」と「ファン」が戦うストーリーを、考察要素を入れた漫画として、ちょっと難しく表現しているのではないでしょうか??

デンジとチェンソーマンは表現者と作品。眷属たちは信者でありファン。マキマは、評論家?

例えばこう。

デンジは表現者。

作品はチェンソーマン。

チェンソーマンの眷属として紹介されたビームやパワーはファン。

で、マキマは評論家であり厄介オタクと。

元々こうであったというチェンソーマンは、表現者の意思によって変えられていきます。

デンジは初め、表現者として小さな成功と幸せを願っていましたが、ファンが増えるにつれて、もっと表現し、作品を変えてきたいと願うようになります。

(ジャムトーストではもう我慢できないデンジの気持ち)

しかし、それを阻む厄介オタク。

自分が見つけた宝だと、一般ピープルのメジャーになるのが許せないのです。

作品がメジャーになるにつれて、やれ「オリジナリティがなくなった」だの「メジャー路線に魂を売った」だのと難癖をつける。

新参のファンとは仲良くなれない。

「こうあるべき」を裏切られると許せない。

チェンソーマンを理解できるのは、私だけなの。

狭まる表現者の自由度、マキマはくそ映画は許さない。

ちょっと話はそれますが、マキマが「面白くない映画はなくなった方がいい。」というのは第93話。

藤本タツキさんの前作、『ファイアパンチ』の世界では、既に映画館はなくなっていましたが、死後の世界、あるいは死後の世界に行く手前を、映画館として描かれているシーンがあります。

人の人生は、それぞれが主人公となる1本の映画。

人は死ぬと、天国へ行く前に、自分が主人公である映画を見に映画館に立ち寄り、人生を振り返る。

自分の人生を映画として楽しんだ後、ゆるやかに消えていくのではないか。

これは、私個人の解釈ですが、『ファイアパンチ』の映画館は、こんな感じに表現されています。

だけど、今のマキマは「面白くない映画はなくなった方がいい。」という。

人の人生は様々で、面白いか面白くないかは、自分が決める事。

くそ人生だって、人生さ。

さよならだけが、人生さ。

だけど、マキマはそれを許さない。

自分の基準以外のものは、許さないのです。

大衆に受け入れられることを消費と呼び、万人にウケる事を嫌う。

難解でめちゃくちゃなものを有難がり、さも自分だけが理解できると誤解しているマキマは正に創作を阻み、つぶしていく批評家であり、厄介オタク。

今回のマキマは、創作者による、評論家の風刺であり、皮肉ではないのか??

とまぁ、私も本気でこんな考察をしているわけではないのですが、マキマのセリフは、作者がキャラクターに言わせた、上から物言う批評家への皮肉であり、風刺なんじゃないかなと思ってます。

厄介オタクとか言って・・、自分じゃんね。とも思うけど、そこは大きな棚に上げて、ターンエンド。

でも私は、作品の感想を書く事を止めないし、考察だって書いてやる。

時には評論だってしちゃうかも。

だって、考察や感想も書かれなくなったら、その作品は終わってるって事でしょう?

ということで、それではまた。

次回は普通の記事を書くよ。